今度、クライアントの個展が日本橋の壺中居というところで行われるそうで、僕も伺わせていただこうと思っています。この壺中居さん、最近好んで読んでいる白洲正子さんのエッセイにもたびたび登場しますからその世界では有名らしく、WEBサイトを見てみましたら、創業大正13年というから驚きです。
時は後漢、費長房という男が街中で、ある薬売りの老人に出会う。その老人は、店をしまうと店頭に掛けてあった壺の中にすうっと入ってしまった。この不思議な光景を見た男は老人に頼み、自分も壺の中に入ってみることにした。するとそこは俗界を離れた、まさに仙境であった。男は暫し俗世を忘れ、共に酒を飲んで壺の外へと出てきた。
壺の中に仙界が広がっているという感覚は面白いですね。中国の漢書の『壺中の天』の一節だそうです。
話変わりますが、乃木坂太郎氏の『医龍』という漫画がありまして、病院であらゆる権力を我が物にしていた野口教授が、生死に関わる大病を患い、孤独に棋盤と向き合う時に「玉」敵陣に乗り込んで何と「成る」のか思索を巡らすシーンがあります。この時、「玉」は「天」になる、というのがの乃木坂氏のレトリック。
天を頭にする言葉はカッコいい言葉が多いです。天運とか天啓とか天佑とか天賦とか。摩利支天やら大黒天やら仏教にも出てきますし、高天原とか天岩戸とか神話の世界にも多いですし、そもそも中国や日本では王のことを天子と言ったわけですよね。だから「玉」が「天」に成る、というのは結構綺麗な話なわけで。豆知識ですが、白洲正子さんもその行動力から「韋駄天お正」などと呼ばれていたそうですヨ(『韋駄天夫人』という著書もあるそう)。
僕らに一番身近な天って「天気」じゃないですかね。ただ、天気って言いますけど、天の気って言われても、イマイチぴんと来ないというところはありますね。こんな時は、お天気の森田さんに聞いてみましょう。
ご存じの通り、漢字は表意文字といって、それぞれの文字が意味を持っています。まず天気の「天」は、”大”と、”一”という二つの部位から作られており、”大”は両手両足を広げた人の姿を、”一”は、その人の頭上にあるものをそれぞれ指しています。つまり、「天」という文字は、人の頭上にあるもの、という意味なんです。
次に、天気の「気」は、”气”という部位と”×”という部位に分けることができます。で、”气”は何かというと、もやもやと得体の知れないものが立ちのぼる様子をあらわしています。一方、”×”というのはお米のことで、要約すれば、「気」はお米から立ちのぼる得体の知れないもの、ということになります。
ということで、「天気」とは、つまり、空にある得体の知れないもの、ということなんですね。
イマイチこれでもぴんと来ないわけですが、「空にある得体の知れないもの」と言われると、まあでもそういう人間の理解の範疇を超えた蠢く靄、みたいな感じなのでしょうね。今の時代にあっても、天気予報が100%確実に当たることはないわけですし、まあ天に残されたミステリー、と思っておけばいいのでしょう。
天文というのも面白いですね。天文学は宇宙学でも良さそうですが、古来からある空の上を見つめ考えるという作業は、まさしく天を研究する学問だったんですね。古代ギリシアから天文の世界は延々と続きますし、Galileo Galileiが異端審問を受けたこと然り、宗教とも密接に結びついていた世界ですから、人間は世界中で空の上位の概念、即ち天を神聖視していたことを改めて気付かされます。
天にも昇る気持ちと言いますが、今じゃ天に昇れてしまう時代。強国は自国の覇権を知らしめるために、億万長者は有り余る金の投資先として、天に目を向けましたが、映画を観ても小説を読んでも天にはまだまだ未知があり、興味や夢や羨望の対象で、物理的に開拓されていったとしても、人類の精神性にとっては「天」はまだまだ時代が移り変わっても、特別であり続けるようにも思います。
というようなことを、平日の昼下がり、能天気に考えておりました。